「De Visione Absentis」不在者を観ることについて

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「De Visione Absentis」不在者を観ることについて

Video Installation by Masayuki Kawai

エキジビジョン

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開催情報

タイトル「De Visione Absentis」不在者を観ることについて
Video Installation by Masayuki Kawai
会 期2004年9月29日(水) - 2004年11月7日(日)
時 間11:00 - 19:00
入場料 300円
主 催トーキョーワンダーサイト
会 場トーキョーワンダーサイト本郷
アーティスト河合政之

河合政之氏による現代の情報社会を「不在者」(不在なる絶対者)という概念によって考察するビデオ・インスタレーション作品を展示。東京における様々な都市・メディアの風景が、電子映像的な手法によって加速、変形、解体され、そのイメージの過剰の内に「不在者」が表現される。さらにニコラウス・クザーヌスの『神を観ることについて』から引用され、作家によってアレンジされたテキストが映像に載せられ、「不在者」と私たちとの視線の関係を示唆する。

わたしたちの目の前にある世界は、いつも、まったく何事もなかったかのように既知のものとして、ここにある。私たちは、日常、その当たり前の世界を驚愕の世界として捉えることはない。私たちにとって、何かが失われたとき、私を取り巻く事物はあまりにも私にとって重要なものだらけなのであることに気づかされる。目の前にある世界としか呼びようのないものは、私たちが常に新しく知覚し、構築しているものに他ならないが、実際には、この場所を取り巻く出来事は、それによって構築されてゆく私という現象と、何の根拠もなくたち現れては、消えてゆくかのように感じられる。

ひとは私と世界との関係を何かによって記述することでしか埋められないものを持ち続けている。とくに現代という消費社会のような海を漂うとき、ひとは、何とかしてこの世界と自分を記述する方法を探し続ける。世界とひととの構造は、その記述を通してしか成り立たないからだ。この出来事や事物そのものより映像とイメージによって構築され支配されている現代においては、その世界に対する記述の方法として、まずもっとも身近な映像そのものをその記述のメディアとすることは当然のなりゆきだろう。現代のアートの作品の多くがビデオを通した作品となっていることは当然の成り行きに違いない。そして、映像を用いた作品は、このあたりまえの日常の世界に、小さな不連続な亀裂を作りながら、記述を始める。しかし、その多くのビデオによる作品は、依然として私小説的な私探しの記録に過ぎない。映像とイメージによってひとがいかに拘束されているかの認識に基づいたイメージの問題に、はっきりとしたスタンスがとりえていないゆえだろう。

河合政之は、そのメディアと映像とイメージが構築する虚構の世界の成立について、私の出来事について記述するのではなく、この世界とイメージの成り立ち、偶像にとりかもまれた私たちの構造をあらわにしようとする。彼がメディアによって支配された世界にありながら、メディアとしてのビデオで批判的に構築することでしか提出せざるを得ないというパラドックスを背負い込みながら。単なる批判が批判としての力を持ち得ないように、彼はその先の世界そのものの成立を、批評と言うものの先に成立させようとしている。その彼のぎりぎりのポジションは、戦闘的、挑発的であり続けるしかないだろう。

ビデオはこれからも、私的な出来事を記述することをやめることはないだろう。しかし、その記述の生み出す日常との小さな不連続な亀裂の先はいったいどこへ向かおうとしているのか。ビデオというメディアによる作品が多く作られるなか、河合政之の作品によって、改めてそのビデオというメディアによる作品が依拠する地平とその向かう方向を考えてみたい。

今村有策(トーキョーワンダーサイト館長/東京都参与)


関連イベント

オープニングセレモニー 

9月28日(火)18:00~

レクチャー+対談 

9月29日(水)19:00~
「クザーヌスと現代」八巻和彦 (早稲田大学教授/中世哲学研究者)  対談:河合政之×八巻和彦

参加クリエーター

河合政之

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